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ドキュメント内 河 地 貫 一 (ページ 45-48)

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│佐世保雨戸両 1

博多

1 長 崎

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アンケ{トに金額の1 2位を仕入れ地別 に記入したものの集計(昭和38)

経 営 と 経 済

一 一

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の長崎県離島よりも強く中央の市場を形成している︒平戸︑五島のばあいはなおかなり県内産物および島内産物の地 方市場を残していたが壱岐にも若干みられた︒

以上離島は戦前日給性が強く︑主として政府専売品(酒︑たばこ)の市場でしかなかったのが︑戦後に及ぷと大企 業の高度成長を支える中央市場の一環を形成してきている︒そしてそれにつれて離島にも中心地点的な機能をもつも のが成長してきでいるがなお県内外(例えば有国の陶器︑諌早の下駄︑大川の家具など)︑島内の地方産物に関する 限り︑かなりの地方市場を形成していることも否定出来ない︒

(2)  (1) 

例えば大村肇日島の地理(昭和三四年)一001

一一 八頁 参照 拙稿υ離島の人口移動l承前l(

経営 と経 済一

O五号)参照

(4)  (3) 

大村肇二別掲書l一

O

O頁

長崎県υ長崎県産業施設調査下巻附表から

同 竹 内 清 文

υ五島列島における中心集落の分布l長大学芸学部記要論議(社会科)第一O号

附拙稿日五島列島の交通運輸(長崎県日五島地域総合開発振興計画現況篇l昭和三八年)

的この卸商の勢力を推定する根拠は実地の聴取調査から得た資料で︑算出の方法は次の通りである(この聴取りおよびその

資料の整理を行ったのは︑本学昭和三八年卒業生湯川悟郎君l河地ゼミナール所属ーである)︒

まず各町の小売商庖数を求め︑各小売屈が福江卸商二六軒からのみ購入すると仮定すると︑一OO%福江卸商の勢力下に

ある︒アンケート調査から福江卸商から実際に購入する商屈延軒数を算出し︑両者の比をもって福江卸商の勢力とする(但

し金額的には全く不明であった)︒

(8)  最寄品(日用雑貨︑食料品︑酒︑化粧品)︑準買回品(下着類︑その他衣料品)︑

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回品(家具︑ラジオ︑カメラ)の腕

入地について福江島︑樺島︑久賀島にアンケート調査を行った︒散布枚数八一

O枚︑回収率七九.六%(資料整備に当ったのは湯川倍郎君である)︒

附しかし︑この実態調査が奈留島にまで及ばなかったので︑向島が貝回品にお

いて福江の商圏にふくまれるはか否か判明しなかった︒

U平戸商業に関する調査は昭和三八年殆んど一ヶ年に亘って実施した︒各小学

校の父兄にアシケ1ト調査を行った︒平戸市役所企画室の協力を得て︑本学昭

和三九年卒業生野村方昭君l河地ゼミ所属が調査に当り資料を整理した︒島外

旅行目的は佐世保は商用が多く︑長崎市は出張が多い︒

4EEA 4EE‑佐世保市役所日佐世保市史﹁産業経済編﹂

(昭 和三 一年

)l

一 一

01

一一

頁によると﹁本市の商業は市内における需要を充たすを主とし︑他地方に移出

販売するもの少し﹂を大正八年の﹁佐世保郷土誌﹂から引用している︒当時大

阪若津(筑前大川)間航路の主要寄港地は佐世保でなく平戸であった(同市史

六八九頁)︒なお佐世保が商訟に指定されたのは大正一五(一九二六)年であ

(12)  る ︒

中部の主要商業地紐差村の郷土誌(大正七年)によると︑﹁販売先は当村及

ぴ隣村﹂とあり︑﹁一般に活況を呈し︑︑発動機船数受ありて︑各港との連絡

頻繁となり︑且つ陸路四通し︑旅客の徒出削次増加し︑将来本島第一の中心点

ならんと思惟せらる﹂とある︒

( 13) 

﹁津 吉村 郷土 誌﹂

(大正七年)では︑洋吉は﹁営業者は大部分他よりの転入者

離島の商品・資本移動国l架橋時代

福江卸商 C26Q午)の列島内勢力

│福江│富江戸ノ浦│三井楽│岐宿│奈留│若松│奈良尾!上五島│計

語甑

11

4131

刊判

2841

2441 2711 

皇 官 省 高 居

114

61213

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1 9.71  8.91  21.21 6.31  18.51  7.21  9.61  1.21.11  8.4 

乙の調査は昭和37年度に実施したもの(本学学生湯川悟郎君による)

実施調査範囲では、有川、新魚目両町は該当小売屈が全くなかった。

福江卸商46軒中満足すべき資料が得られたのは26軒であった。

(註)(1) 

(2)  (3) 

経 営 と 経 済

にして(中略)︑乙れら商人は相競ふて業に励み︑所謂薄利多売主義を執り居れるを以て︑一般に活気に富み︑価格また尿

なり︒販路は中津良村の約八割︑津吉村の三分のこ︑士山々岐村の三分の一なり﹂とあり︑佐世保の商業勢力が弱かっただけ

に相対的に今日より有力であったと思われる︒商広数(大正六年末)七一軒︑行商人三一人(現在卸商一︑最寄品広二五︑

買回品居一四︑飲食庖四︑計四四軒)

(1

現在(昭和三八年)壱岐船籍の機帆船九四隻うち石田村のみで六九隻である︒最大七五Oトシ︑平均一OOトシ強である︒

もちろん壱岐の移出入物資の九O%が壱岐船籍のみによって運ばれているのでなく︑天草︑大川︑下関籍も多い(島外船籍

船が全機帆船輸送の八八%を占める)︒壱岐機帆船組合(壱岐船籍)の主要移出入貨物は︑季節的には葉タバコ︑殺類︑畜

牛︑周年的にはカオリン原石︑セメント︑砂利︑石材︑白土︑肥料︑雑貨類等で水産物は全くない︒この調査は︑昭和三九

年度卒業生亀井靖基l河地ゼミ所属l君をわづらわした)︒

(15) 

乙の調査は本学昭和三九年度卒業生植松俊徳君l河地ゼミ所属l

の手 によ って

壱岐島における購売力の島内小売庖以外 への分散(%) (昭和39年)

福岡市│唐津市│島外│農漁協│行爪│その他│ 計 I=U(;' │ 

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ドキュメント内 河 地 貫 一 (ページ 45-48)

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